2013年12月19日木曜日

盗んだワイン


ザ・スミスを聴かなければロックを聴いたことにはならない。

報われない弱い命に寄り添って何らの解決策も提示せず、ただただ惨めなだけの思春期に、そっと手向ける一輪の花。道路脇の死亡事故現場に置かれた花のように、そのやりきれない思いを形容する言葉が未だに存在しない悲しみを音にして全世界にそっと手向けた音楽。

デビット・ボウイは「ロックンロールの自殺者」の中で、そのやりきれない世界を「religiously unkind」(宗教的な冷酷さ)と表現した。人は平等だと謳いながらも、生まれながらの境遇の差は宗教的な因果律でしか説明できない。この言葉は私の知る限り、スミスが描くやりきれない世界を極めて的確に表現した言葉の一つである。

盗んだワインを持ち込んで、目と目を合わせて頷けば、最高の夜の始まりだったね 。それでも君は今夜、奴のところへ行くっていうのかい?そんな言葉を聞くために今日まで過ごしてきたわけじゃないよ。僕は君に借りはない。君の方こそ僕に借りがあるじゃないか。君が出向く必要はないよ。奴の方が君の所へ来るべきなんだ。僕がしたみたいにさ。何も知らない君の言葉は悲しく響くよ。でも、今夜僕は、君を笑わせることができるんだ。人生は辛い。でも、僕は今夜、君を笑わせることができるんだ。

やるせない深いため息が、レトロスペクティブな師走の夜空に消えていく。そんなロマンティックでメロンコリックで機知に富んだモリッシーの歌詞とジョニー・マーの繊細なメロディーがザ・スミスの真髄である。

「ミート・イズ・マーダー」(食肉は殺人だ)という曲がある。曲名だけを真に受ければ言い過ぎである。しかし問題はそこではない。これは宗教的因果律を無視して侵攻していく野蛮な世の中への警告なのだ。由緒正しきロックフリークは、このモリッシーの極論的佇まいにロックの可能性を見出し、そこに自らの可能性を見出して、一歩を踏み出す力に変える。そのエネルギーこそがロックの醍醐味であるのだ。

時代は相も変わらず人の心を置いてけぼりにして流れ過ぎてゆく。コンピューター・リテラシーの格差の中で、貧困層におけるゲーム中毒が蔓延し、ネットいじめやストーカー殺人など、ネット社会の弊害も叫ばれて久しい。テクノロジーがどんなに発達しても、それを「どう使うか」といった根本命題を欠いた発達は、「殺人ロボット」なんていうものも生み出していく。「どう使うか」という命題は「どう生きるか」と同意であり、それはまさしく宗教的哲学の希求であることに他ならない。学校でのいじめは19万件にも達し過去最悪となった。実際にはこれ以上の潜在的いじめがあるだろう。あらゆる分野での確固たる哲学的基軸が今ほど求められている時代はない。「ブラック企業は殺人だ」という時代は既に到来している。そんな時こそスミスのような異物を極める知性の調べが、忘れされ行く心優しき少数派に声を発する勇気を与えるカンフル剤になるのだ。届くところには必ず届く。問題が学校、仕事、家庭、恋愛といった身近なものであればあるほど、スミスは威力を発揮する。それは、君は一人ではないという普遍的な励ましの王道に貫かれているからである。

スミスを愛する者同士の絆は、ボロ布にくるまれた恋人同士のように深くて強い。80年代のインターネットのなかった時代に、スミスは心優しき弱者のソーシャルなプラットフォームであり、街角にロマンティックでリアルなエンゲージメントを生んでいたのだ。弱いことは美しいことだという価値観に精神的安らぎを得られれば、次の一歩を生むきっかけになる。強いことばかりが美化される体育会系を嫌う僕らの必然であり、蓋を開けてみれば、結局、みんなスミスが好きだったのだ。



一人で悲運を嘆くなら、スミスの甘美な殺人的メロディーに身を委ねて、一人静かにグラスを傾けよう。きっと世界の何処かで、君に似た誰かがスミスを聴いている。偉大なる異端児ザ・スミスの使命は僕らが想像する以上に深くて広いのだ。バンドに解散はあっても、残した音楽に解散はない。

人生は本当に辛い。やりきれない瞬間は幾度となく訪れる。そんなときは、ウソっぽい言葉を聞くよりも、ザ・スミスの音楽に耳を傾ければいい。彼らがそっと花を手向けてくれるなら、芳しい香りに涙も乾いて、霞んだ星空もはっきりと見えるだろう。

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