2013年11月19日火曜日

一人立つ

家族の知らない所でスタンドアップ・コメディアンを目指す主人公がいる。自分が最高に輝く瞬間であり、そのことを自分が一番良く分かっている。そんなある夜、いつもの舞台に立っている時に、観客席の奥に父親が見ているのに気づく。すると急に動揺し、噛み噛みになって調子を崩して、収集がつかなくなってしまう。そんな映画のワンシーンを思い出す出来事に遭遇する時が稀にある。

家族の知らない場所で、家族の誰も見たことがない自分でいる時が、自分が自分らしく輝ける時だった。そうした時間が長かったせいで、その世界から中々抜け出せない。歳相応の境遇の変化にそうした境界線はもうとっくになくなっていると思っていたが、思うほど変わっていない。

家族や愛する人の前で胸を張って、ありのままに輝ける自分を見せられる時が、真の自立だと思っている。一人で暮らすとか、家庭を持つとか、親を高級寿司店に連れていくとか、そういったことは私が目指す自立における重要度はさほど高くはない。たとえ出る杭になって打たれようとも、最高に輝いている自分の好きな自分を、肉親や兄弟、世話になった人たちに分け隔てなく見せられないようでは、「自立」からは程遠い。

どんな音楽や、映画や、小説や、その他の数ある「作品」と呼ばれる創造物も、それが全世界に向けて露出されるものであるならば、私は常に一定の尊敬の念をおいている。出来栄えに対する批判はその後であり、まず、一定の敬意を表する。もちろん、常識的な善悪の次元で「悪」だと切り捨てる基準はある。その上で、自分の好みではない音楽とか映画とか小説でも、世の中に胸を張って「作品」として市場に露出される時点で、私に真似できない「才能」であり、誰にも否定されることのない厳然とした「結果」であり、すなわち尊敬に値する「自立」である。

私が特にロックアーティストを好むのは、その創造物が「自立」を体現しているものとして極めて分かりやすく身近に触れることができるからである。「自立」したものに夢を託すことは自然の理であり、それが音楽なら身近であるゆえに持続性がある。そんな魅惑的な創造物に自らの「自立」を煽りながら、今日も雑多な音楽に耳を傾けるのだ。

ロックアーティストの成熟の一つに「鳴らしたい音」から「鳴らすべき音」への成熟があるなら、他人が描く自分、自分が描く自分を混ぜあわせて、「なるべき自分」を思い描いて生きていかねばならないと思う。が、口で言うほど簡単ではないことは分かっている。でも、探ることはできる。感じることはできる。音が聴こえる方向へ、一歩踏み出すことはできるはずである。

0 件のコメント:

コメントを投稿