2013年8月3日土曜日

生まれ変わっても、出会いたい



ハイ・ラマズをヘビロテしている。夏のスローダウンに最適で、岩にしみいる柔らかい音楽である。

僕は夏に生まれた。だからというわけでもないが、夏の匂いが好きだった。山や川の自然と戯れ、木造家屋の畳の上で仰向けに寝るのがお気に入りであった。隣家から程よく漏れ聞こえる高校野球の実況を子守唄に、ひんやりした畳に疲れを吸い取らせていた。多少の失敗は蝉の喧騒の中に紛れ込ませてしまえば心地よく眠れたものだ。

中学を出てすぐに上京した僕は捕らえられた野生馬のように怯えていた。言葉よりも先に身体が動き、気づいた時には投げ飛ばされて一生消えない傷を負っていた。気づいたら一人ぼっちになっていたが、自然の中で鍛えられた僕のスピードに都会の人間はついて来れないだけだと勝手に決めつけていた。人との距離感を狂わされて、夏に帰る実家の畳は棺桶のように狭苦しく、蝉はただ五月蝿いだけになっていた。そんな風にして、好きだった夏は僕から遠ざかってしまった。


ありふれた言葉に疲れて、傾ける言葉は音楽の方が多かった。僕が選んだのはロックンロールだった。ありふれた言葉に疲れて、裏切られて、殺されそうになる自分を「今」につなぎとめてきた。世代のギャップは言葉で分かる。今を生きる思春期世代の言葉は、僕らが使い捨てた言葉のかけらのようなものだ。その言葉を拾う人もいれば、蹴飛ばす人もいる。捨てられた言葉は道端に追いやられて雨ざらしの運命をたどる。陽の光に干からびて、誰かが拾う頃には、判読不明な言葉に成り果てている。時に錆び付いていたり、時に鋭くささくれていたり、時に怨霊めいていたり、時に底知れない悲しみを湛えている。風に舞って今を生きる彼や彼女のポケットやら口の中やら耳の中やらに入り込み、デジタル信号となって、つぶやかれていく言葉もあれば、その言葉の重たさや柔らかさのために、風に舞うことなく、軒下や地中深くに潜り込んでしまったり、海底に沈んでしまったり、内気な人間の奥底に閉じ込められてしまった言葉もある。

風に舞う言葉たちが散乱し、誰かが拾っては捨ててを繰り返し、僕らが生まれ変わる頃にはいかなる言葉になるのだろうかと聞かれても、今の僕には言葉が足りない。今はただ、ハイ・ラマズが拾ってくれた柔らかい音楽(ことば)をじっと聞き入っている。好きだった夏を少し取り戻せたような気がする。否、もうすでに取り戻しているかもしれない。

生まれ変わっても出会いたい音楽である。


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